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七草文庫

Home > ブログ > 2014年07月31日の記事

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アトリエ

 関係のない話をしようか。例えば私が一冊の本を買ったとする。その本はなんの変哲もない本で、何処ででも買えるただの本。そんな本でも、私にとってはとても大事な本であったとする。なに、理由などないさ。ただ、なんとなく大事な本だとする。そうしたら、その本は本当にどこにでもあるような本なのだろうか。

 例えば、私が一枚のハンカチを持っていたとする。それはとても高価なハンカチで、世界に一枚しかない貴重なハンカチだ。しかし、もし私がそのことを知らなかったらどうだろう。私にとってそのハンカチは、そこらのありふれたハンカチとなんの変わりもないのではないだろうか。

 

何が言いたいのか?要するにモノの価値というのは、見る側の考えによって幾らでも変わるということさ。持っている、見ているものが価値がないと思えば価値などなくなるし、とても価値があると思えば価値がある。極端な話、この世界だって私は価値のないものにすることが出来るんだ。あくまでも、私にとって、だがね。

 

 ところで、君は君に価値が無いと言ったね。それはどういう意味かね?君は本当に自分に価値がないと思っているのか。それで私のところまでわざわざ尋ねて来たのかね。

 仮に君が本当に価値のない人間だとする。では、君はそこらで死体をあさっている烏よりも価値がないのかね。いや、もしかするとそうかもしれない。君がそう思ってしまえばね。しかし、君がもしありとあらゆる富よりも自分は価値があると思えば、そうなるのさ。あくまでも君にとっては、だが。訳のわからぬ理屈だと思うだろうが、それが真理なのだ。

 

そもそも、君にとっての価値とは何かね。人に評価されることか、それとも地位や名誉か。君にとっての価値が何なのか。それは私には諮りかねる。しかしながら、世間で言う人の価値とは、その人間の性格の資質、社会での貢献度など多岐にわたると私は思う。だから君が仮に価値がないとしても、もしかすると社会的資質においては価値があるかもしれない。君にとって価値はなくても、他の誰かにとっては価値があるかもしれない。おわかりかな?

 そこでなんだが、君は非常に私にとって価値のある人間だ。私の作品にはどうしても君が必要なんだが、協力してくはしないだろうか。もう君が君の価値を見出せないのならば、この世界に居ないのも同然だろう。それならば、私が一番君を有効に使うことが出来ると思うのだが、どうだろうか。無理にとは言わないよ。これはあくまでも、私の考えだからね。

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まどろみ

小川が流れる小さな野原に横たわり、空を流れてゆく雲をいつまでも眺めていた。空は同じ表情を浮かべない。見る度に違う表情を僕に向けてくれた。

 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来た。時間がいくら流れても、この場所だけは僕を僕のままに留めてくれる。ああ、そうだ。此処が僕の・・

 

 ふと目を覚ますと、オレンジ色に染まった空が目に入る。寝てしまったのか。おもむろに腕時計を見ると、既に夕方の五時を回っていた。重い体を起こして大きく伸びをする。川辺に吹く心地よい風が僕に秋の訪れを告げた。

 

 今は秋なのか。

 

 ぼんやりと頭の中に残るあの野原の景色が一瞬僕の目の前に現れる。しかし其れは夢なのだ。現実には存在するはずがない。

眠る前までは当たり前のように秋を感じていたはずなのに、まるで「秋」という存在を忘れてしまったかのような妙な錯覚を覚えた。

 

おかしな感覚だ。僕はまだ、夢を見ているのかもしれない。本当はあの野原に寝転んで、まだ雲を見ているのだ。

 

 おそらくこれも錯覚なのだろう。僕は再び河原に寝転んで目を閉じる。夢を見ているのなら、もう覚めても良い頃だ。さあ、行こう。

 しかしいくら時間が経っても僕があの野原に戻ることはなかった。それどころか、あの野原がどういう場所だったのか・・だんだんと思い出せなくなってくる。確かにそこに僕は居たのに、野原は僕の頭の中で目まぐるしく変化し、ついには元の形もわからない荒野へと姿を変えてしまった。

 

 僕は荒野に一人きりで立っていた。暗く、星も月も見えない空に抱かれてただ一人、何をするわけでもなく荒野に立ち尽くす僕。あの野原は、もうどこにもない。僕は悲しくなってその場にしゃがみこんだ。

 

 気がつくと、僕は河原の下に寝転がっていた。知らぬ間に転がり落ちたのか、それとも誰かに落とされたのか・・。体中に打ちのめされたような痛みを感じる。空を見上げると、明るい月が僕を照らしていた。

 

 ああ、良かった。僕は一人じゃなかった。

 

 僕は河原に座っていた。静かに流れる川の音と、秋を告げる虫の声、そして明るいつきの光。これも夢なのではないだろうか。現実なわけがない。こんなに美しい景色が、現実なわけが・・・

 

 ふと川を見ると、真っ白な月が煌々と照っていた。それは空に浮かんでいるそれよりも美しく、神々しかった。

 

 美しい月だ。こんなに美しい月があるのだから、あの下には野原があるのかもしれない。僕の中から消えてしまったあの美しい野原が・・

 

 僕は吸い込まれるように川の中へと入っていった。体中の痛みも、刺すような水の冷たさも、本当は濁っていた重い水の流れも感じない。そこにはきっと、僕の野原があるに違いない。

 

 月に手を伸ばす。どろ、どろ、とそれは形を崩して僕の体にまとわりついた。視界が遮られ、ごぼ、ごぼ、という音共に何も聞こえなくなった。体が強い力で何かに引っ張られる。

 

 何故そんなに引っ張るんだ。そんなに美しい世界があるのか。僕を連れて行ってくれるのか、あの野原へ。

それとも・・・

 

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サーカス

 僕の町にサーカスが来た。名前も聞いたことのないような小さなサーカス。郊外の大きな空き地に、大きくて真っ赤なテントを張って、聴くだけで心躍るような明るい音楽を街中に響かせて。

 ピエロは街中を徘徊し、大量のビラを空中にばら撒く。子供ははしゃぎながらそのビラを親に見せ、サーカスへ誘う。僕はその川のような流れに逆らう。サーカスとは反対の方向へと歩を進める。何故だろう、サーカスが嫌いだった。

 心のなかにどろ、どろ、どろ、と黒いドロのようなものが流れていて、陽気な音楽さえも不気味なものに変えてしまう。僕は穢れているから。皆が楽しむような、あの素敵なサーカスも素直に見れないのだろう。

 

街は夕暮れ。大通りには明かりが点され、街中のネオンが煌々と輝く。いよいよサーカスが始まるぞ。多くの人々が郊外へと吸い込まれてゆく。僕はその流れに逆らう。

 何故だろう、僕が流れに逆らっているのは。長いものに巻かれろ、とは言うが、僕はその気になれなかった。あのサーカスに行ってしまえば、僕も大きな社会の流れの一部。そのことが気に食わないのかもしれないが、そうでないのかもしれない。

 どん、どん、と、何度もすれ違う人とぶつかる。しかしどうだろう。彼らは謝りもしないし、僕のほうを見もしない。彼らにとって僕など居ないも同然なのだ。彼らの目にはサーカスしか映っていないのだから。まるで虫だ。街灯に集まる虫と同じ。では僕は難なのだろう。虫にもなれない、何者かなのか・・・。

 ふいに目の前に真っ白な手が現れた。布の質感が不気味な手。顔を上げると真っ白な顔がそこにある。真っ赤な口が大きく開いて僕にこう言う。

 

 「君もサーカスにおいでよ。サーカスは楽しいよ。」

 

 得体の知れないそれは、まるで変化のない笑顔を浮かべて僕の手を掴んでチラシを握らせる。そしてチラシを渡すとすぐに僕に興味をなくした。

 ああ、そうだ。大人なんてそんなものさ。これは所詮作られた楽しさなのだろう。僕はピエロに背を向けて、再び人々に逆らって歩く。どろ、どろ、という心のドロはサーカスでは拭えない。サーカスも僕のドロと同じもので出来ているから。

 

 駅前は寂しいほど人がいない。皆あのサーカスに行ったんだろう。あのドロの塊に吸い込まれて、偽者の夢を見る。でも彼らはそのことに気がつかないのだろう。

 僕は手の中のチラシを広げる。すでにぐしゃぐしゃになっているチラシ。黄色い紙に熊や象などの動物たちが楽しそうに踊っている絵が描かれている。その下でピエロたちが不気味な笑みを湛えている。

 
 『夢と希望のサーカス。あなたに夢を届けます。』

 
そんな文句が宙を舞う。だが、どうだろう。一番目立つ、サーカスの名前の下に大きく金額が踊る。あのサーカスに行った人々は夢の代償を払うのだ。決して安いとは言えない代償を。彼らが汗水たらして働いて、ようやく得たであろうお金を払うのだ。

 そしてサーカスは作るのだ。彼らが見る夢を。笑みを湛え、体を張って夢を見せ、そしてそれをお金で売るのだ。僕の心のドロは、お金で買った商品では落とせない代物なのさ。サーカスは夢というエゴを売る。でも誰もその夢がサーカスの心のドロだとは気づかないのさ。

 そうしてサーカスは今日も大きな口をあけて人々を待っている。人々を吸い込んで、その大きな口を閉じてしまうのだ。

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