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七草文庫

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ひのがみの贄 其の三

六の店は御堂稲荷神社の前を通る細い道に面した場所にあった。しかし入り口はその道に面しておらず、路地を通らなければ店に入る事は出来ない。これは彼の店がある「場所」に理由があった。御堂稲荷神社に面する地域一体は「御堂」と呼ばれ、「火守」のようにその地域を治める「稲荷神社」が無い特殊な地域である。「御堂」は「くじ」とは無関係の永住権を持つ商人が集められた地域で、特に御堂稲荷と「縁が深い」者達が住んでいる。六もまた、その一人であった。

店の中は商売をしているとは思えないほどすっきりしていた。居間には棚が一つあり、そこに薬やお札が乱雑に置かれている。六は桐を居間に通すと、壁に立てかけてあった机を床に戻して「適当にくつろいでいてくれ」と言って台所へと消えた。桐は初めて入った「他人の、しかも男の家」に緊張していた。この部屋は不思議な匂いがする。香のような、色々な匂いが混じった香り。薬の匂いなのだろうが、慣れない匂いに囲まれて落ち着けない。きょろきょろと周りを見回す。部屋はお世辞にも綺麗とは言えない。専門書のような本が山積みにされていたり、作りかけの薬が放置されていたり。とても「生活感」がある部屋だと桐は思った。

 

「待たせたな」

 

六は湯のみを二つ持って戻ってきた。湯のみからは嗅いだ事の無い匂いがする。

 

「毒なんか入ってないぞ。むしろ体に良い。俺はこれでも、この町で唯一薬を売ることを許された『専売』の薬売りなんだ。この手の調合には自信がある」

 

桐は湯飲みを手にとって、中の湯を一口だけ口に含んだ。最初に苦味を感じて思わず顔をしかめたが、後から来た甘みが苦味を打ち消す。なんとも癖になる味だ。ごくごく、と喉を鳴らして一気に飲んでしまった。

 

「おいしいかい」

 

その問いかけに、桐は素直に頷いた。

 

「落ち着いたかい。どうしてあんなところに居たんだ」

 

六は心配だった。路地で桐を見たとき、彼女がとても怯えているように見えた。何か「恐ろしいもの」に追われていたように。そしてその「恐ろしいもの」に心当たりがあったので、放ってはおけなかったのだ。

 

「火守稲荷が怖かった……」

 

桐の言葉に、六は「やはり」と思った。彼の目から見ても、あの時の火守稲荷は異常に見えた。

 

「そうだろうな。ああいうあいつの顔を見たこと無いだろう」

 

桐は頷く。

 

「俺も見たことが無いんだ。いつものあいつとは違う、別人のようだった。俺も怖かったよ、さっきのあいつは」

 

 小鳥を見るような目で桐を見つめる火守稲荷の姿を思い出して、少し寒くなる。六は湯のみの中の物を一気に腹へと流し込んだ。そんな六を、桐は安堵した表情で見つめていた。自分が感じた「恐怖」を分かり合える人が居て少し安心したのだ。てっきりあの異様な場所から逃げた事を咎められるのかと思った。

 

「あの……、私が逃げてきた事を怒らないのですか」

 

 桐は恐る恐る尋ねた。六は不思議そうな顔をして桐を見つめる。

 

 「何で俺がお前を怒るんだ。何か俺に怒られるような事でもしたのかい」

 「だって……」

 

 六が火守稲荷と親しい間柄であるから。火守稲荷の所へ連れ戻されてしまうのではないかと脅えていた。しかし、六は桐が火守稲荷や「ひのがみ」とどのような関係なのかを知らないようだった。この人ならば、救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。桐はその微かな希望に縋ろうと思った。

 

「六さん、聞いてください」

 

 六は口を開いた桐の顔を見てはっとした。さっきまで脅え、震えていた少女の瞳は、何か硬い決心をしたような強い光を宿していたからだ。桐の言葉を聞かなければならないと思った。

 

 桐は心の中に秘めていた自分の境遇を六に話した。この町の生まれではないこと。家族はもう居ない事。武衛に命を救われた事。「ひのがみ」に世話になっている事。「火守稲荷」と「ひのがみ」の外には出ることが出来ない事。「ひのがみ」の火を守っている事。つっかえながらも、言葉を一つ一つ考えて話した。桐が知りえる事全てを、初めて赤の他人に話した。

 六はその話を聞いて、桐が「自由」ではない事を知った。この町で生まれ育ったが、桐の存在は今まで知らなかった。「ひのがみ」と「火守稲荷」は桐を隠していたのだ。きっと桐が話した全てが「真実」ではない。桐にすら隠している事があるに違いない。それは表に出せない、何かどろどろとした醜いものかもしれない。それらを桐が知らないのが幸いだった。

 

「分かった。俺がなんとかしてやる。安心しろ」

 

 六は桐に言った。なんとかしなければ、と思った。

 

 六は桐を連れて御堂稲荷神社に向かった。きっと家にも「ひのがみ」の者が訪ねてくるだろうと踏んだからである。桐が見つかる其の前に、もっと安全な場所へ移動する必要があった。御堂稲荷神社は六にとって「一番安全な場所」である。故に、そこに桐を隠そうと思い立ったのだった。家の裏口を出ると、細い通りを挟んですぐ御堂稲荷神社に着く。人目を避けるように正面の鳥居を避け、脇道を通って社へ続く回廊へ入った。

 桐はこの神社に来るのが初めてだった。御堂稲荷町を統括する元締めであるという話は聞いていたが、間近で見る機会に恵まれなかった。煌びやかな装飾が施された社が眩しい。せわしなく働く狐達や、ひっきりなしに訪れる参拝者達で境内は賑わっている。静まり返った社の中へと続く回廊から見る風景は、まるで異世界を見ているかのような感覚だった。

 

「そんな不安そうな顔をするな」

 

 六は回廊の外を見つめていた桐に話しかける。

 

「今から会いに行く人は、俺が一番信頼している人だ。絶対になんとかしてくれるって。だから安心しろ」

 

 桐は何も言わずに頷いた。

 

 本殿の入り口に着くと真っ白な髪の女性が二人を出迎えた。真珠のように白く輝く長い髪を後ろで一つに束ね、朱と藍の瞳を持った美しい女性だった。「お待ちしていました」と女性は言った。桐と六が社を訪ねる事を知っていたようだ。社の中に入るとぴりぴりとした空気が桐の肌を伝った。思わず身震いしてしまいそうな張り詰めた空気だ。外の世界とは違う、どこか火守稲荷の顔を思い出させる空気だった。

 社の中は大きな一つの広間となっていて、御簾で隠された大きな祭壇以外は何も置かれていなかった。二人は少し待っているように言われ、広い社の真中辺りに座った。桐は緊張していたのか、そわそわと落ち着かない様子である。御堂稲荷は御堂稲荷町の起源とも言える社で、そこに祀られている神はすなわち町の元締めである。火守稲荷の上に立つ存在というだけで、桐にとってとても恐ろしいに思えたのだった。

 

 十数分ほど経っただろうか。がら、と奥の扉が開く音がして御簾の向こうに黒い影が見えた。

 

「六、来ましたね」

 

 御簾の向こうから幼い子供の声がした。

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ひのがみの贄 其の二

 火守の中心部に鎮座する火守稲荷神社。御堂稲荷神社と比べると規模は小さいが、火守の住人達によって支えられる権威ある神社である。その入り口に二人は立っていた。男はやはり悪い人じゃなかった、と桐は思っていた。本殿の入り口に神職の姿をした若い男が立って手を振っている。彼が火守稲荷である。

 

「あれ、火守さん、今日はなんか『若い』ですね」

 

 六がわざとらしく言う。

 

「大切な人に会うのに、年老いた姿では申し訳ないでしょう」

 

 火守稲荷は微笑んで言った。桐は六の言葉がよく分からなかった。彼が桐と会うときはいつもこの格好だから。

 

「神様の『大切な人』だなんて、桐ちゃんは凄いね」

 

 六はそう言うと握っていた桐の手を離した。彼の手は暖かかったから、もう少し握っていたかったな。名残惜しそうに六の手を握っていた手を見つめる。そんな桐を火守稲荷は面白くなさそうな顔をして見ていた。

 

 社の中には既にお茶が三つ置かれていた。まるで二人が一緒に来るのを分かっていたように。桐はそんな事を気にも留めなかったが、六はそれを見て嫌そうな顔をした。

 

「で、六さんは何の御用なのでしょう」

 

 棘を刺すような言い方だった。

 

「今日は御堂稲荷の使いで来た。別にこの子とは何もないから安心しな」

 

 そう前置きをすると六は御堂稲荷に祭事で使う火を分けて欲しいと伝えて欲しいと頼まれた事を話した。火守の「ひのがみ」で使っている火は火守の神から貰った神聖な火で、御堂稲荷町の祭事に良く使われるのである。

 

「良いですよ。ただ、私は『ひのがみ』から離れていますので、桐さんに頼んで下さい。今あの屋敷を守っているのはこの子ですから」

「あれ、屋敷の祠は空だったんじゃないのか。」

「実は、今は桐に守ってもらっているのです」

 

 六は怪訝そうな顔で桐を一瞥すると、小さな声で火守稲荷に問いかけた。

 

「『ひのがみ』がお前以外の神を祀ったと言うのか」

「そんな訳ないでしょう」

 

 火守稲荷は桐を慈しむような目で見ていた。その目を見た六は背筋に冷たい物を感じた。

 

「この子は私ですから」

 

 桐は二人が自分の事を話しているのだと言う事は分かったが、言葉の真意までは理解することが出来なかった。六も同様に火守稲荷の言う事の真意が理解できずにいた。全くの他人であるはずの火守稲荷と桐が同一人物であるはずが無いからである。しかしそんな事をうっとりとした目で言う火守稲荷に、ゾッとした。鳥肌が立っているのがわかった。

 

「神様の考えている事は良く分からん」

「ええ、それでいいですよ」

 

 火守稲荷はにっこりと笑った。六はこの町で生まれ、この町で育った。故にこの火守稲荷とは物心ついた時からの知り合いである。だが、こんな表情は今までに見たことがなかった。自分が知らない火守稲荷が目の前にいることに、僅かながら恐怖心を抱いた。神は神。得体の知れない物であることには変わりないのか、と。そしてその感情が、隣にいる少女に執着する物であることが妙に不気味に思えた。

 

「話はもう、いいでしょうか」

 

 帰れ、と言われているようなものだと六は受け取り、「ああ、ちゃんと伝えたからな」と言って席を立った。部屋を出る際、桐に「ありがとうございました」と小さな声で言われたが、早く部屋を出たいと言う思いで一杯だった六は、彼女の言葉など耳に入らなかった。

 

 六は火守稲荷の社を出た時、外の空気がとても美味しく感じた。それ程あの場所は居心地が悪かったのだ。火守稲荷の目が怖かった。普段は温厚な性格の老人で、六は良く用もないのに立ち寄って世間話をしていた。しかし今日は全く違う、姿かたちも違う別人だった。いつものような笑顔の下に嫉妬の炎を滾らせ、その殺気立った目を六に向けた。思い出しただけで冷や汗が滲む。あの女の子は彼が抱いている感情を理解しているのだろうか。思わず案じずにはいられなかった。

 

 

 六が社を去った後、二人はお茶を飲みながら他愛もない会話を楽しんでいた。それこそ、「最近こんなことがあった」という世間話だった。話が「つまらない」とか「面白い」とか、そんなことは桐にとって重要ではなかった。ただ「火守稲荷とお茶を飲みながら話をする」という事自体を楽しんでいた。ただ、いつもとは違ってどこか落ち着きがない様子だった。火守稲荷の話に相槌を打ちはするが、他の事を考えているような顔をしていた。勿論火守稲荷もその事に気付いていて、内心穏やかではなかった。

 

「私の話はつまらないかな。」

 

 思わずそう言ってしまう程、桐の表情は曇っていたのだ。桐ははっとすると首を振った。

 

「いえ、つまらなくなんか無いです。」

「でも、私の話を聞いていないよね。何か別の事を考えているのかな。それとも……他にやりたい事や遊びがあるのかな。」

 

 桐は火守稲荷の機嫌を損ねないように「そんなは事ないです」と言って笑おうとしたが、火守稲荷の顔を見た途端顔を引きつらせてしまった。「ひっ」という声が出そうになったが、なんとか堪えた。火守稲荷の声は穏やかだし、表情は柔らかく笑っているように見えたが、その目は冷たい光を湛えていた。「優しいお兄さん」のような顔しか見たことが無かった桐は、瞬間的に見えたその顔に恐怖を覚えたのだ。

桐が見せた怯えるような表情に火守稲荷は戸惑った。少し大人気ない態度を取ってしまったか。

 

「ごめんね。そうだ、美味しいと評判のお菓子を買っておいたんだ。取ってくるから一緒に食べよう」

 

桐の機嫌を取ろうと、買っておいた菓子を取りに行くために火守稲荷は席を立った。これを食べればきっと機嫌を直してくれるだろう。見初めた日から自分の命を分け与えるほど可愛がって、「ひのがみ」で蝶よ花よと育てさせた。いずれ自分の嫁にしようと思うが故、自分以外の、ましてや人間に心を寄せそうな彼女の姿が許せなかった。自分だけを見ていて欲しい、自分だけの物にしたいという醜い独占欲と嫉妬が、火守稲荷の内面に渦巻いていた。

元々は「ひのがみ」の守り神として穏やかに暮らしていたが、この町に来た途端に「ひのがみ」との縁を切り離されて不満が募っていた火守稲荷だった。「ひのがみ」の為に生きてきた故に「火守」や「関」を守るということは火守稲荷にとって「無意味」でしかなかった。そんな中、現れた桐はまさに光だった。自分の魂を分けて「ひのがみ」に与える事で、再び「ひのがみ」との縁を結ぶ事が出来る。それは何にも代えがたい喜びであった。そして、そんな縁を与えてくれた桐は火守稲荷にとって心の支えだった。とてつもなく愛しくて、可愛らしく思えた。だから、自分が彼女を一番愛し、大切にするために桐を「ひのがみ」と「火守稲荷神社」から出さない事にしたのである。「御堂稲荷町」には「桐」という少女は存在していない。認知されていないのはこのせいである。

 

それだけ愛しても、水が手から滑り落ちるように桐もまた抜け穴を抜けようとしていた。火守稲荷が席を立った後、足音を立てないようにこっそりと社を出た。怖かったのだ。何か見てはいけないものを見てしまったような気がして。社から出来るだけ離れたくて、人の声が聞こえる方へ走る。自分が何処を走っているのか分からないが、がむしゃらに足を動かした。

火守は工房所が狭しと建っている入り組んだ地域である。路地が迷路のようになっているが、まっすぐ走ればどこかしら火守の外に出るようになっている。桐が出たのは「御堂通り」という町一番の大通りだった。

御堂通りは参拝者や外から来た商人の為に整えられた大通りで、狐峠からの「関」と、その反対側にある「関」を繋ぐまっすぐな道である。多くの宿屋や土産物屋はこの通り沿いに建ち、いつも大勢の人でごった返している。人が多い場所に出て、桐は少し落ち着いた。人込みに紛れて、どこか安全な場所まで移動しよう。人間の波の中に身を投じる。御堂通りを流されるうちに、大きな鳥居が目に入った。火守稲荷神社のそれとは比べ物にならない、遠くからもはっきりと認知できる大きさの鳥居である。桐が紛れ込んだ集団はその鳥居の方へと向かうようだった。

神様のところへ行ったら、火守稲荷に告げ口をされたりするのかな。そんな不安が心の隅に湧き出したが、集団から出る勇気も無く、御堂通りから逸れてその鳥居をくぐる。御堂稲荷神社の参道に入ったのだ。先程の大通りとは雰囲気が違い、道沿いには神具を扱う店が多い。本殿を向かう前に集団を離れ、参道の脇道へと入る。表とは違い、狭い道に何を売っているのかわからない店がぎっしりと並んでいる。屋根と屋根が重なっているのか、太陽の光が届かない為に薄暗い。

 

「これからどうしよう……」

 

思わず本音が口からこぼれた。きっと今頃、「ひのがみ」に連絡が行って大騒ぎになっているだろう。火守稲荷も怒っているかもしれない。咄嗟に出てきてしまったが、これから行くあても無い。気分が酷く落ち込んで、その場に座り込んでしまった。ぽろぽろと涙が出てきて、一人でひっそりと泣いた。

 

「おい、ここは参拝者立ち入り禁止だぞ」

 

背後から聞き覚えのある声が聞こえた。桐が振り向くと、先程別れた男が立っていた。

 

「あれ、さっきの……桐ちゃんだっけ。どうしてここにいるんだ」

 

六は不思議そうに首を傾げていたが、桐の腫れた目を見ると桐に手を差し伸べた。桐が戸惑っていると桐の手を無理やり掴んで立ち上がらせ、何も言わずに歩き出した。桐は、さっきとは違って「怖い」と感じなかった。むしろ、この男が現れたことに酷く安心した。繋いでいる手が、暖かくて頼もしかった。

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【三】ひのがみの贄 其の一

「火守稲荷神社」が治める「火守」という地域には、「ひのがみ」という鍛冶屋があった。火守が出来た当時、火守は「ひのがみ」が治めていた集落だったが、それぞれの地域を「稲荷神社」によって治めるという決まりが出来た時に、元々「ひのがみ」が個人的に祀っていた「火守」の神を遷して「火守稲荷神社」とした。その際「火守稲荷」は「ひのがみ」をこの地に永住させる事を条件に、「ひのがみ」を出て「火守」の地を守る事を「御堂稲荷神社」と約束したのである。御堂稲荷神社は火守稲荷神社に「関」の管理を任せ、「火守稲荷神社」は「火守」と「関」の二つを守る事となったのである。「火守」の地名はこの「火守稲荷神社」からきた。

 *

 さて、「ひのがみ」には火守の神を守るために作った「火守の刀」と呼ばれる名刀があった。それは店の中庭に祀られた祠にいる神を守るために作られたものであった。火守の神を手放してからしばらくは屋敷の祠に神はいなかったが、ある日再びそこに「火守の神」を祀る事になったのである。

 町が出来て二百年が経とうとした時、当時の当主であった武衛という男が一人の少女を抱いて帰ってきた。屋敷の者は大変驚いた。なにせ、その少女は傷だらけで今にも息絶えそうな状態だったのである。武衛が言うには少女は狐で、町を出た場所にある狐峠という場所で猟師に撃たれて倒れていたところを助けたという。綺麗な毛並みをしていたので猟師は手放すのを嫌がったが、金を握らせて無理やり連れて帰ったらしい。この町に入った途端、狐は少女に姿を変えたそうだ。可哀想だが、おそらく助からないだろうと誰もが思う程、少女は深い傷を負っていた。

 屋敷の者が止めるのも聞かずに、武衛は少女を抱いて屋敷を飛び出した。そして彼が向かったのは、かつて「ひのがみ」が祀っていた火守稲荷神社だったのである。火守稲荷の眷属は少女を見て「助かるまい」と思ったが、「ひのがみ」の主である武衛を帰す訳にも行かずに火守稲荷のいる本殿へ通した。

 火守稲荷は武衛が駆け込んできたと聞いて「ただ事ではない」と思っていたが、彼が少女を抱いて駆け込んできたのは流石に想定外だった。少女は既に息を引き取る間際で、武衛の腕の中でぐったりとしていた。火守稲荷は少女の美しさに心を動かし、「ひのがみ」との縁もあって、少女を「嫁」にする代わりに少女を助けるという約束をした。火守稲荷は自分の魂を少女に「分け」て、少女の命を救った。

 少女は体が回復するまで「ひのがみ」で養生していた。右目を失ってしまったが、それ以外は跡が残ることも無く綺麗に治った。火守稲荷は自らの魂を分けた少女を「ひのがみ」に祀る事を提案し、「ひのがみ」の祠は火を取り戻した。少女は「桐」と名乗り、「ひのがみ」は「神」として大切にした。

 *

 「桐」は元々、遠くの山の狐だった。生まれつき美しい毛並みを持っていたために母は「人間に狙われるのではないか」と心配していたが、母が生きている間は何事も起きず、のびのびと暮らすことが出来たのだった。母が死んだのはちょうど一週間前の事だった。人間が仕掛けた罠に嵌って身動きが出来なくなってしまったのだ。桐は一生懸命助けようとしたが、彼女は非力だった。結局猟犬に追われるまでその場を離れることが出来ず、ただ母が弱っていくのを見ていることしか出来なかったのである。猟犬と猟師は母を狩って尚、貪欲に桐を追ってきた。桐の毛並みはそれだけ人を惹きつける上物だったのだ。草陰に身を隠しながら必死に逃げたが、一週間経った頃、ついに銃に撃たれて倒れた。飲まず食わずで逃げ続け、もう前に進むことも出来なかったのである。

 そんな時に現れたのが武衛である。彼は桐を「売ろう」とは考えなかった。自分を抱え、命を救ってくれた。人間にも良い奴と悪い奴がいるのだ。桐は思った。まさか自分が神の嫁として拝まれているなど、夢にも思わなかった。ただ自分は安全なところにいるのだという安堵と、武衛たちの優しさに喜んでいた。

* 

 火守稲荷は桐を大層可愛がって、良く自分の社に呼んでは一緒にお茶を飲んでいた。火守は滅多に事件の起こらない平和な地域で、関の管理は眷族に任せていたので暇だったのだ。桐は火守稲荷を「仲の良い兄」のように慕っていた。まさか自分が魂分けした器になっているなど夢にも思わずに、火守稲荷と一緒にお茶を飲む時間を楽しみにしていた。「ひのがみ」は桐を使って再び火守での権力を持ち始めていた。桐は「ひのがみ」の火を守り、そして力を守った。

 そんなある日、いつもは桐と「一緒に」火守稲荷神社に行くはずの使いの物が病に倒れた。桐は火守稲荷神社に行きたいとせがんだが、あいにく人が出払っていて供をするものがいない。「一人で行こう」と桐は決めた。いつも通っている道だ。きっと一人で行ける、と。桐は火守稲荷神社に行く時以外は屋敷から出たことがない。土地勘は皆無だった。

 案の定桐は道に迷った。神社と屋敷はそれほど離れていないのだが、桐にとってはまるで迷宮に迷い込んでしまったような感覚だった。周りの店が全て同じ店に見える。ぎゅっと裾をにぎってうつむく。周りには人間ばかりで、彼らに話しかける勇気はない。路地をうろうろしていると、「おい」と声をかけられた。

 

「見ない顔だな。迷子かい」

 

 知らない男だった。童顔で若者のように見える。髭を生やし、髪の毛は後ろで束ねているのに、ほとんどが結んだ脇からだらしなく垂れている。緩くきた着物は擦れていて、長く着ている物であるという事がわかる。急に知らない男に話かけられた事が怖くて、走って逃げようとすると手を掴まれた。

 

「おいおい、逃げるなよ。怪しいものじゃないから安心しな」

 

 男はにやりと笑う。桐には怪しい人にしか見えなかった。手を振り払って、大声で助けを呼ぼうか。しかし足がすくんで声すら出せそうにない。

 

「俺は六。御堂稲荷の目の前で薬屋をやっている。今日は火守の稲荷さんに用事があってきたんだ。だから怪しい者じゃないってば」

 

 火守の稲荷……。まさに桐が行きたかった場所だ。桐は少しだけ安堵した。

 

「私は桐。『ひのがみ』にお世話になっている者……です。私も火守稲荷神社に行きたくて……。でも、道が分からなくて迷ってしまって……。」

 

 気持ちを落ち着かせてゆっくりと言葉を吐き出す。心臓がばくばくと音を立てて鳴っているのがわかる。

 

「なんだ、やっぱり迷子だったのか。じゃあ一緒にいこう」

 

 六は桐の手を引いて歩き出す。もしもこの人が悪い人だったら、このまま連れて行かれた先で捌かれて襟巻きにされちゃうのかな。桐は少し怖い想像をして身震いした。しかし、なんだか男は悪い人には思えなかった。桐が狐だと、この男は知らない。人の子を捌いて襟巻きにする人間などいないだろうと桐は思った。

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