- 2024/11/24
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冬の砂浜は美しい。特に夜、新月の日は格別である。昔北海道に旅行に行った際に見た、真っ暗な海に浮かぶ漁船の漁火の美しさは今でも目に焼きついて離れない。何がそれを「美しい」と思わせるのだろうか。凍てつくような冬の風か、それとも厚く重なり合った雲の濃淡か。
あれは数十年前の事だった。やはり冬の、しかも新月の日だ。私は夜遅くに家の近くの砂浜を散歩していた。その日は特に寒い日で、厚手のコートを着込んで散歩に出かけたのを覚えている。砂浜は真っ暗だ。深夜という事もあって、人一人歩いていない。昼間は人々が集まり賑やかだが、今は静まり返って波の音だけが聞こえている。まるで美しい絵画の中に一人閉じ込められてしまったような、不思議な雰囲気だった。
私は若い頃から夜の海が好きだった。真っ黒い水面に月の光が反射されてきらきらと輝くのも美しいが、吸い込まれてしまいそうな闇を湛える海も好きだった。海の上に広がる同じくらい黒い空と、そこで輝く数多の星と、その下にある真っ黒な世界。まるで幼い頃に読んだ「人魚姫」の中の世界のようだ。その中にたった一人で浸れる幸福を、毎日この体で感じたい。それだけが人生のしあわせのように思える。
人魚姫が王子様を見つめていた海。真っ黒な海の中から、王子様が乗った煌びやかな船を見つめるというシチュエーションが、なんとも幻想的で憧れていた。これほど真っ暗な中では、王子様の乗った船はさぞかし美しく光り輝いていた事だろう。海底には無い、闇夜を照らす温かな光。手を伸ばしても、その手が掴めるはずの無い別世界の光。人魚姫には眩しくて、素晴らしい物に映ったに違いない。だが、逆も然り。その光の中に居る今、私が恋焦がれるのはその真っ暗な闇だ。眩しく光り輝く世界に居るからこそ、全てを飲み込む闇に惹きつけられる。その中に身を投げ出して、人魚姫の居る世界へ落ちて行きたいと思う程に。
海岸と道路を隔てるコンクリートの階段に腰をかけて、家から持ってきた温かいお茶を飲む。冷えた体の内側が仄かに熱を帯びる。背後を通る道路には人も車も通らない。ざざ……と言う波の音だけが聞こえる。
空を仰ぐと、月明かりのない暗闇の中で宝石のようにキラキラと光る星々がある。普段は月明かりに消されてしまっている星も、暗闇の中では良く映える。私もあの星達と同じだ。眩い光の中では「無い」物と同じ。「ある」のに「無い」のだ。けれど、新月の空の下ではきっと、光り輝くことが出来る。それはとても悲しい事だけれど、とても尊い事なのだ。
私はいつか、あの闇底へと沈むだろう。人魚姫が光の中へと飛び出していったように、私もまた闇へと沈む。そして泡になって美しい海の一部になるのだ。泡は空気に交じり合って消える。強い光の中で星のように輝くことは出来ずとも、一瞬だけ虹色の美しい光を宿す事は出来る。それは憧れを現実へと昇華させる素晴らしい一瞬だ。
穏やかな波が子守唄を歌うように海岸に押し寄せる。その子守唄を聞きながら、私はその波に抱かれて眠りたい。凍えるような冷たさも、やがて暖かな日差しに包まれて新しい命を育む。その命を育めるように、闇の中に身を溶かして泡となる。そしていつか海の魔物となって、絵本のように闇の中から光を眺めたい。足や光を失おうとも、冷たく暗い皆底から見た光はきっと、この世の何よりも美しい。
波際に立って海を眺める。足元に波が絡み付いて、沖の方へと引っ張ってくれる。その波に任せて足を進めれば、きっと海の底へと連れて行ってくれるだろう。少しだけ前へ進んでみると、痛いくらい冷たい水が身体を這うように上へ上へと昇ってくる。茨のように絡みついて、その冷たさで私を刺す。ちくちくちくちくと痺れるような痛みが足を覆う。
さらに前へ進む。腰の辺りまで水に浸かり、自分と闇との境目が見えなくなった。空が湛える星と、海が湛える暗闇と、そこに佇む私が一つに溶けているようだ。星々はこんなに近い場所にあったのか。手を伸ばせば掌の中に閉じ込めてしまえそうな気さえする。空と海が溶け合い、私は空の中に浮かんでいる。今ならばこの闇の中を飛んで行ける。
空を飛ぶなんて、それこそ絵本の中の話だと思っていた。体は地を歩くよりも軽く、自由自在に空を翔る。夜空を翔る海鳥の如く、私は夜空を渡る。煌く星が溶けた海原を越えて、海の闇を掴む。冷たい風が体を攫おうと纏わりついて離れない。その風がとても心地よかった。このままこの風に抱かれて闇に沈んで行きたい。そう思った刹那、どこからか声が聞こえてきた。
「もしもその足をくれるなら、闇の中でも生きられるようにしてあげよう」
闇に侵されるまどろみの中、私は問いに対して頷いた。すると、闇が渦を巻いて私の体を闇の底へと運び出した。今まで漂っていた星々は闇の彼方へと消し飛ばされ、空は暗黒へと姿を変えた。どんどんと深い所へ沈んでゆく。そのうちに私の足は溶けるようにして消え、その代わりに醜い魚の尾が生えた。願っていたように、私は人魚姫のいる世界へと落ちたのだ。ただし絵本のような綺麗な足ではなく、怪物のような醜い尾を手に入れて。
私は全ての願いを叶えた。ついに人魚姫の見た光を闇の中から見る事が出来たのである。新月の夜に海面に上がり、街の光を暗い海の中から眺める。それはとても美しく、華やかで、手の届かない尊いものだった。何十年繰り返してもその光が酷く懐かしく、かつて光に中に居たことを思い出す事がある。しかしそれはほんの束の間の事で、体を冷たい水に撫でられればすぐに忘れてしまう。人間であった時間と引き換えに手に入れた永遠を、今は愛しく思う。
あれだけ羨ましく思った新月の海を、死ぬまで眺められるのだから。例え空が遠くても、それを悲しいとは思わない。泡になって消えるまで、私は闇に抱かれたい。